ABEJA Arts Blog

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それは小学校の教室から始まった ABEJA創業までの軌跡(上)

「ゆたかな世界を、実装する」を掲げるABEJAを創業した岡田陽介。創業までの道のりを、本人が語った。

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岡田陽介

1999年。この年、日本の学校での情報教育は大きく転換した。前年の98年に改訂された学習指導要領で、小学校での「積極的な情報機器の活用」が謳われ、総合的な学習の時間などで、インターネットの使用が急速に広がった。岡田陽介がネットと出会ったのは、そんな時期だった。

岡田陽介(以下、岡田)小学校5年生のときのホームルームの時間でした。「触わりにいこうよ」と担任の先生が呼びかけて、クラスのみんなでパソコン専用教室に行ったんです。ずらっとパソコンが並んでいて、1人1台独占できた。

先生に教えてもらいながら、子供向けのサイトをカチカチ、クリックしていきました。次々に現れるサイト。簡単にどこにでも行けるような自由な感覚。自転車で回れる自宅周辺が「世界」のすべてだった自分に、全然違う世界が見える道具が与えられた瞬間でした。気持ちがウワーッと舞い上がったのを覚えています。

ほどなく授業で使うだけでは飽き足らなくなって、先生に頼んで放課後もパソコンを触らせてもらうほど大好きになりました。

パソコンに出会うまでの自分も、のめり込みやすい性分ではありました。ただ、学校の勉強は全然面白く思えなかった。算数の授業で、練習問題を繰り返さないとダメなんておかしいと思うような性格でした。反復よりも、なぜ例題がこうやって解けるのかを考えたい、と思ってそのまま先生に言う。

そんな、面倒くさい子供でした。

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小学生時代の岡田陽介


最初に触れてから1年ほどたった12歳の誕生日、祖父母から自分専用のパソコンを買ってもらう。

岡田)自分はいわゆる、おじいちゃん・おばあちゃん子です。相当かわいがってもらいましたが、家族の誰もパソコンを使ったことなんてなかった。だから小学生の孫からほしいとねだられて、こんなものを買い与えてもいいものだろうかと、祖父母も相当迷ったみたいです。

私が通っていた眼科医の助言が決め手になりました。心配した祖母が「どうなんでしょう」と相談すると、「いまの子が大人になる頃には、コンピューターが分からなかったらもう仕事なんてできないですよ」と。そんなもんかと納得して、祖父母は30万円もするパソコンを僕に買ってくれたのです。

パソコンが来た日からしばらく、我が家はてんやわんやでした。

添付の説明書を穴が開くほど読み込んで、プロバイダというところと契約しないとネットにはつながらない、とようやく理解して自分で母の名義で契約しました。自宅の電話機がある1階の廊下から自分の部屋のパソコンにつなげるために、15メートルのモジュラージャックケーブルも手に入れた。そうすると今度は、廊下に長いケーブルがそのまま延びている。転ぶじゃないの、と母親が文句を言う。ケーブルを天井に張り付ける作業もしました。

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ネットから、次第に プログラミングにのめり込んでいく。

岡田)プロバイダーと契約してインターネットを使い始めると、今度は電話料金の問題が出てきました。当時はダイヤルアップ回線だったので、使えば使うほどかかるからです。しかも、ネットで使う間は電話できない。いい加減にしなさいと、母からネットを使う時間を制限されました。ネット接続がいらないプログラミングに関心が移ったのは、そのころからです。

ネットサーフィンがなぜできるのか、その仕組みを知りたくてネット情報を探すうち、プログラミングに行き着きました。近くの本屋で小遣いで買えるプログラミングの教本を買い、そこに書かれていたものの意味も分からず1日かけて丸写しして、ブロック崩しみたいなゲームを作ったのが最初です。

あちこち写し間違いがあって、実行ボタンを押してもエラーが出る。試行錯誤を続けるうち、文字の羅列が意味をなしていると気づきました。2日で完成させて遊んで3分で飽きて次のプログラミングを始めるーーを繰り返すうち、一つ一つの記号の意味が頭に入り始めました。

プログラミングがしたいから放課後は帰宅を急ぐようになりました。だから友達もみるみる減っていきました。寂しい半面、でも、こっち(コンピュータ)も楽しいしな、と1人で納得していたところがありました。

中学に入る頃には、売れるソフトを1人で作ってました。企業から「買いたい」と連絡を受けたこともあります。そのうちプログラミングにも飽き、フォトショップみたいな画像加工ソフトを使って遊び始めました。

中学3年生の時、愛知工業大学名電高校の情報科学科を自分で選んだ。「普通科に行ったほうがいい」という担任教諭の勧めも断った。

岡田)塾の先生に、情報系なら愛工大名電か豊田高専があると教えてもらったのがきっかけです。高専は寮生活になるだろうし、プログラミングで夜更かししがちな自分の生活スタイルには合わないだろうと、愛工大名電にいくことにしました。

卒業生もまだ出ていない新しい学科で、中学の担任には「コンピュータの勉強なら、大学からでもいいじゃないか。普通科に行きなさい」と散々言われました。心配してのアドバイズだったんでしょうが、コンピュータの世界にいってしまった自分には、全く響きませんでした。

でも、実際に入ってみると、コンピュータサイエンスの授業が本当につまらなかった。独学とは言え、自分のレベルからすれば物足りなさ過ぎて、先生よりも自分の方が知ってることも多かった。正直、厳しいなあ…と思いながら、授業を聞いてたのを覚えています。

一方で、コンピュータ一辺倒だった自分が、アートという別の世界と出会ったのは、高校時代でした。美術部に入って顧問の手ほどきを受けながら、絵を描くことにのめり込みました。特に、デッサン。顧問の先生には、よく「岡田くん、製図のようなデッサンを描くのやめなさい」と言われてました。

プログラミングは明確なメソッドがあってキャッチアップがたやすい。だから、ほぼ独学で身につけることができた。けれど、デッサンはそうはいかない。方法はありますが、ものの見方自体は非常に感覚的なんです。

プログラミングからアートという領域に踏み込んだことで、アートとテクノロジーの交差するところ、コンピュータグラフィックの分野に入っていきました。

2006年、高校3年生の岡田は下級生と3人で、山形市の東北芸術工科大で開かれた「全国高等学校デザイン選手権大会」(デザセン)に出場、優勝にあたる文部科学大臣賞を受賞した。社会の様々な問題を解決するためのアイデアを競うこの大会で、岡田たちが取り組んだのは、各国の社会のありようを指標化し、その国の「健康度」を花びら型のグラフで表現するという内容だった。 


デザセン2006 #01 愛工大名電高校 『RAINBOW FLOWER PROJECT』

岡田)あのプロジェクトで、ダイバーシティー、多面性という視点が身についたと思っています。「常識」と言われていることを実際に調べてみると、ファクトが異なる場合がある、ということが、データから見えてきた。「当たり前」が壊れ、違う風景が見えてきました。

仲間の存在も大きかった。一緒に取り組んだ1年生が車いすに乗って通学していたんですが、彼女と一緒に帰ると、何げない道路に実は段差がすごく多いことに気づかされました。「こんな段差を車いすで行けるの?」「はい...」と言葉を交わしながら歩いたのを覚えています。人は立っているところから見えるもので判断しがちです。だから先入観にとらわれている。でも、本当はもっと多面的にものを見なきゃいけないんだ。そんなことを実感した機会でもありました。

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岡田たちがデザセンで文部大臣賞を受賞したことを報じる記事=2006年11月12日付中日新聞朝刊

デザセンでの受賞は、もう一つの視点を得るきっかけにもなった。

岡田)優勝後、大会を主催していた京都造形芸術大学と東北芸術工科大学の創設者、徳山詳直理事長に京都に呼んでもらいました。

このとき、当時のベストセラー書籍「国家の品格」に触れながら、徳山理事長が「君たちは技術は得意なんだろうけど、技術だけではダメなんだ」と語り始めたんです。「芸術の力で技術を人間の手に取り戻さなければならない」と。

20世紀は様々な技術が進化し、それに伴い社会も変わっていく「テクノロジーの世紀」だった。その一方で、原子爆弾が開発されるなど、テクノロジーが暴走し、社会に大きな負の影響ももたらした。こうした負の側面をどうやって防いでいくかーー。

徳山理事長のそんな話を聴きながら、テクノロジーに対する、倫理や哲学の重要性に気づかされました。

小学生からプログラミングを始めた自分は、図らずも悪い方向へ暴走しうるスキルを身につけている。そうであればなおさら、倫理や哲学といったリベラルアーツを会得して、自分なりの軸を身につけなければならない。そんなものの見方を知った貴重な機会でした。(続く) 

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