ABEJA Arts Blog

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「失敗」発「聖地」行き ABEJA創業までの軌跡(中)

 

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大学在学中の2009年、岡田陽介は友人と2人でインスタグラムのような画像共有サービスの会社を起こした。スマートフォンの普及とともに、従来の通信規格より圧倒的に高速の「LTE回線」が急速に拡大していたころである。その可能性を見込んでのビジネスだったが、ほんの数カ月で資金繰りに行き詰まった。

岡田)サークル感覚でこの会社を始めました。ニーズはありました。だけど、サーバーで保管する画像が増えていくと、サーバーのコストもうなぎ登りで増えていった。すぐにキャッシュが底をついて終わり。後は淡々と残務処理です。サーバーを閉じる作業をしながら、サービスへの広告を依頼してくれた会社に「申し訳ございません、お金をお返します」と、謝りに回りました。

あのころの私は、事業から収益をあげていくというビジネス感覚が足りなかった。技術をサービスに落とし込むことはできたのですが、ユーザーからの対価やコストに必要な資金をどう設計するかという、ビジネスの基本的な知識が乏しかった。単に技術を知っているだけでは、ビジネスはできないと痛感させられました。

会社を畳むのと同時並行で、次の場所も探していました。いくつか採用の話も来ていて、経営者に会ったり、面接を受けたりしていました。

 

すぐに、現実の壁にぶつかった。

岡田)学生時代に起業するくらいですから、「エンジニア」という職業の枠を超え、新しいビジネスを手がけたいという、テクノプレナー的発想は当時から持っていました。1回失敗したくらいでその気持ちが潰えるわけじゃない。だから、次のところでもエンジニアという立場にとどまるつもりは毛頭ありませんでした。

でも、そういう思いを会社の面接で言おうものなら、落ちるわけです。「エンジニアとして弊社に」というのが、先方の要求ですから。

当時、エンジニアは、大学を出たら企業のエンジニアとして雇われるケースが「常識」でした。企業内外のシステムを、指示を受けて構築していくような。エンジニアがビジネスそのものに関わる、というモデルはほとんどなかった。それだけエンジニアとビジネスは、ばっさりと切り離されていました。

加えて、そのころから企業エンジニアの待遇はかなり上がっていました。新卒のエンジニアを1000万円を超す年収で迎える企業も珍しくなかった。起業なんてリスクの高い「苦労」をしなくたって高給が取れてしまう。一方、ビジネス部門だとよくて800万円、みたいな水準です。「2倍も給与格差があるのに、なんでエンジニアからビジネスに行くの」と見られる訳です。

自分からすれば、その給与格差にも違和感があった。ビジネスにいったら、なぜ給与が減るんですか。エンジニアがビジネスに関われないのはなぜなんですか。実際、面接でそう疑問をぶつけたこともありました。

採用担当はたじろいでましたが、自分は真面目にそう思っていました。本当にそれが「常識」なのか、と。常識への違和感に正直でいたかった。現実にはなかなか受け入れてもらえなかったのですが。

 

そんな中、東京のあるIT企業の社長と出会う。

岡田)これまで通り「起業した方がいいかなと思っています」と率直に伝えると「うちで経営者になる勉強をしていけばいい」と言ってくれました。驚きました。会社としては、自分をエンジニアとして雇った方がいいだろうに、そこまで言ってくれるのか、と。

この会社に就職することになり、名古屋から東京に引っ越すことになりました。

このとき、祖父は既に亡くなっていて、祖母から「なにかあったら帰っておいで」と言われました。「頑張ってくるわ」と返しましたが、心の中では「帰ることはないだろうなあ」とつぶやいてました。名古屋でできることなんて、もう何もないと思っていましたから。

僕はおじいちゃん・おばあちゃん子でした。かわいがってくれた祖母と別れるのは複雑な気持ちでしたし、祖母もいろんな気持ちを抱いているだろうとは感じていました。

振り返れば、小6の誕生日にパソコンを買い与えてからというもの、祖父母は僕のやっていることが1ミリも分からないままでした。自分たちの想像を超えた世界、決して追いつけない異次元に、孫が行ってしまったようなものです。地元のメーカーや役所に就職してーーなんて、もっと分かりやすい世界で生きてほしい、と思っていたかもしれません。

祖父母ともにもう亡くなりましたが、いまもこの時のことを思い出します。

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入社した会社では、システム開発から始まり、デザイン、マーケティング、セールスから新規事業の立ち上げと、数カ月おきに担当する業務が変わった。経営者としての基礎を幅広く学べるようにという社長の配慮だった。

岡田)それぞれの担当をこなす中で、それぞれの仕事には共通のフレームワークがあると気づきました。異動先の仕事の内容に関連した本を10冊ほど読み、どの本でも指摘していることを拾っていくと、重要なポイントがはっきり見えてくる。そこに気づくとゴールに向かうためのメソッドや課題には再現性があると分かってくるーーといった次第です。新規事業では、四半期で数億円規模のビジネスを手がけ、自信もつきました。

 

実績が認められ、2011年、米シリコンバレーに赴任することになった。「新規技術の開拓」がミッションの、1人出先機関としてスタートした。

岡田)なぜ、シリコンバレーだったか。自分がやりたいと思っていたことが実現していた「聖地」だったからです。エンジニアが「エンジニア」の枠を簡単に飛び越え、アントレプレナーにもなっていく瞬間が、あの場所では日常的に起きていた。そのエコシステムの中に一度は身を置いてみたいと、ずっと思っていましたから。

大学生のときの起業で失敗はしたけれど、あのとき失敗しなければ、こういうかたちでシリコンバレーに行けたかどうか。長い目で見れば、前進のための「失敗」だったのだと思います。(続く)

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